LOGINミステリーバスツアー
その広告は、駅前の電光掲示板に流れていた。 「行き先不明!ミステリーバスツアー参加者募集」 毎日、家と会社の往復ばかりの生活。気づけば、休日も特に予定はない。友人に連絡するのも億劫になって久しい。スマートフォンの画面を眺めながら夜を過ごし、気づいたら朝になっている、そんな日々が続いていた。 ──たまには、こういうのもいいかもしれない。 軽い気持ちで、私は広告を出している旅行代理店に入った。 「ミステリーツアーですか。人気なんですよ」 受付の女性はにこやかだった。目尻に柔らかな笑い皺が寄る。日程を聞くと、ちょうどその日は予定が空いている。空いているというより、最近の週末はいつも空いている。 「申し込みます」 私は迷わずそう言った。料金を支払い、領収書を受け取って外に出ると、少しだけ気持ちが軽くなった気がした。どこへ連れて行かれるのか分からないという、その漠然とした不安が、逆に心地よかった。 ツアー当日。 集合場所には、すでに十人ほどの参加者が集まっていた。年齢もバラバラだ。カップルもいれば、一人参加らしい人もいる。六十代とおぼしき老夫婦が穏やかに話し込んでいる隣で、二十代の女性二人組がスマートフォンで写真を撮り合っていた。私と同じように一人で来たらしい中年の男性は、腕を組んで空を見上げていた。 やがて大型バスが到着し、私たちは順番に乗り込んだ。席に着くと、添乗員が人数分の袋を配り始める。三十代くらいの、清潔感のある男性だった。 「これよりミステリーツアーの演出として、皆様にはアイマスクを着用していただきます」 袋の中には、黒いアイマスクが入っていた。柔らかな素材で、遮光性が高そうだ。 「目的地に到着するまで、外さないようお願いいたします」 車内に少しざわめきが起こる。「本格的ね」と隣の女性が笑った。だが誰も文句は言わない。それもそうだ。ミステリーツアーと銘打っているのだから、これくらいは覚悟の上だろう。私もアイマスクをつけた。 バスが発車する。 右へ。左へ。また右へ。ときどき信号で止まり、また走る。アイマスクのせいで、どこを走っているのか全く分からない。時間の感覚も、方向の感覚も、次第に失われていく。エンジン音と、タイヤが道路をこする音だけが耳に残った。 しばらくして、バスが高速道路に乗ったのが分かった。速度が上がり、走行音が低く安定したものに変わる。車内では小さな会話が続いていたが、やがてそれも途切れ途切れになり、静かになった。誰かが寝息を立てているのが聞こえた。 私は目を閉じたまま、何を考えるともなく揺られていた。不思議と、怖くはなかった。むしろ心地よい空白の中に、ゆっくりと沈み込んでいくような感覚があった。 どれくらい時間が経っただろう。 突然、バスがゆっくりと停車した。エンジンが止まる。静寂。そして添乗員の声が響いた。 「皆様、目的地に到着しました。アイマスクを外してください」 私はアイマスクを外した。 ──そこは、霊園だった。 広い敷地に、無数の墓石が並んでいる。曇り空の下で、石の色だけが妙に冷たい。木々はほとんどなく、遮るもののない灰色の空が、どこまでも低く垂れ込めていた。 「え……?」 誰かが戸惑った声を出す。周囲の参加者たちもざわめき始めた。 「どういうことだ?」 「観光地じゃないのか?」 添乗員は、変わらぬ笑顔で言った。 「それでは皆様、どうぞお進みください」 「進むって……どこへ?」 添乗員はゆっくりと腕を広げた。 「それぞれの場所へ」 そのとき、一人の女性が叫んだ。 「やだ……」 女性は一つの墓石を指差していた。 「これ……私の名前……!」 私も、近くの墓石を見た。 そこに刻まれていたのは、私の名前だった。 震える手で、墓石の文字をなぞる。滑らかに研磨された石の表面が、指先に冷たく触れた。彫られた文字は深く、丁寧で、まるでずっと前から、ここに在り続けていたかのような風格があった。 生年月日。 そして──没年月日。 それは、今日の日付だった。 頭の中が、真っ白になる。意味を理解しようとする思考が、途中で止まる。周囲では悲鳴や怒号が上がり始めていたが、それすらも遠い水の底から聞こえてくるように感じた。 気づけば、私は石の前にひざまずいていた。 自分の名前を、今日の日付を、もう一度なぞる。 そのとき、ふと気がついた。 墓石には、もう一つだけ、文字が刻まれていた。 小さな、けれどはっきりとした字で。 ──「よく来た」 背後で、添乗員の声が静かに響いた。 「ミステリーツアーへようこそ」 「行き先は──皆様の終着点です」 私はゆっくりと振り返った。 バスはもう、そこになかった。 添乗員も、他の参加者たちも、いなかった。 あるのは、どこまでも続く墓石の列と、低く垂れ込めた曇り空だけだった。 そして私は、ようやく気づいた。 今日、家を出るとき、鍵をかけた記憶がないことに。 駅前の広告を見たとき、自分の影が地面に落ちていなかったことに。 旅行代理店の受付の女性が、私の目ではなく、私の少し後ろを見ていたことに。 バスの窓に、私の姿が映っていなかったことに。 風が、墓石の間を静かに吹き抜けた。 私は立ち上がり、自分の名前の刻まれた石に、もう一度だけ手を触れた。 ──不思議と、怖くはなかった。 むしろ、どこかなつかしいような気さえした。東條咲希は、古びた木造アパートの前で足を止めた。二十五年ぶりに訪れるこの場所は、記憶の中よりもずっと小さく、そして薄汚れていた。 彼女の手には、一通の手紙が握られている。差出人は二宮優──彼女の幼馴染であり、二十五年前のあの日から姿を消した少年だった。『咲希へ。二十五年経った今、ようやく真実を話せる。あの日、僕は確かに死んだ。でも、君だけは覚えていてくれると信じている。7月15日の午後3時、旧桜台アパート203号室で待っている』 咲希は震える手で階段を上った。木製の手すりは湿気を含んで黒ずみ、踏みしめる度にギシギシと軋む。203号室のドアは半開きになっていた。「優……?」 部屋の中は埃っぽく、カビ臭い。だが不思議なことに、部屋の中央に置かれた折りたたみ式のテーブルと二脚の椅子だけは、まるで今朝拭いたばかりのように綺麗だった。 そして、椅子の一つに座っていた。 二宮優が。 十歳のままの姿で。「来てくれたんだね、咲希」 咲希の全身に鳥肌が立った。目の前にいるのは、間違いなく優だった。二十五年前と同じ、夏休みの制服。同じ無邪気な笑顔。同じ、少し癖のある髪型。「優……本当に、あなたなの?」「うん。でも、正確には『優の一部』かな」 優は穏やかな表情で椅子を勧めた。咲希は足が震えながらも、腰を下ろした。「二十五年前、僕はこのアパートで死んだ。覚えてる? あの日、咲希と一緒にここで『勇気試し』をしたこと」 記憶が蘇る。あれは小学五年生の夏休み。地元で有名な心霊スポット、桜台アパート。二人は怖いもの見たさで忍び込んだ。「私たちは……確か、三階まで行って、そのまま帰ったはずよ」「違うよ、咲希」優は首を横に振った。「僕たちは203号室に入った。そして、『それ』を見つけてしまった」 優が指差した先——部屋の隅に、古い鏡台が置かれていた。 瞬間、咲希の頭の中で何かが弾けた。 忘れていた。いや、忘れさせられていた記憶が、津波のように押し寄せてくる。 あの日、二人は確かに203号室に入った。そこには古い鏡台があった。優が「見てごらん」と言って、鏡を覗き込んだ。咲希も隣で覗いた。 鏡に映ったのは──二人の姿ではなく、二人の「死体」だった。 首を吊った優と、その下で血まみれで倒れている咲希。「思い出したね」
実家の片付けを始めたのは、母に頼まれたからだった。「お父さんの部屋、そろそろ何とかしないとね」父が亡くなって、もう半年になる。遺品整理を先延ばしにしていた母も、ようやく少しずつ片付ける気になったらしい。私は週末になると実家へ帰り、古い書類や衣類を箱に詰めていた。その日、押し入れの奥から一冊のアルバムが出てきた。茶色い革の表紙。かなり古いものだった。「これ、懐かしい」母が横から覗き込む。私はアルバムを開いた。幼い頃の私。運動会。七五三。家族旅行。どれも覚えている写真だった。ページをめくっていると、ふと手が止まった。一枚の写真に、見知らぬ女性が写っていた。家族四人で撮ったはずの写真だった。父。母。幼い私。そして、知らない女性。三十代くらいだろうか。肩までの黒い髪。白い服。そして、妙に自然な笑顔。「お母さん。この人、誰?」母は写真を見た。しばらく黙っていた。「……知らないわ」「え?」「そんな人、うちの家族にいなかったもの」母は笑った。「昔の写真だから、誰かが一緒に写ったんじゃない?」「でも、これ家族旅行の写真だよ」写真の裏には、父の字で日付が書かれていた。私が五歳の頃、家族三人で温泉旅行に行った日だ。「お父さんに聞いてみれば?」母はそう言って、アルバムを閉じようとした。私はもう一度、写真を見た。どうしてだろう。その女性の顔に、妙な既視感があった。初めて見るはずなのに、ずっと前から知っているような。そんな気がした。 その夜、私はスマホでアルバムの写真を何枚か撮った。ベッドに入ってから見返していると、気になることに気づいた。あの女性が写っている写真が、一枚だけではなかった。別のページにもいる。今度は父の隣。さらに次のページでは、母の隣。写真をめくるたびに、少しずつ私たちに近づいている。──偶然だろう。昔の写真なのだから、撮影する人や場所によって立ち位置が変わることもある。私はスマホを置いた。そのとき、通知音が鳴った。母からだった。<さっきの写真、もう一回見せて>私は写真を送った。しばらくして、返信が来た。<変ね><何が?>既読がつく。返信はすぐには来なかった。数分後。<この人、前にも見た気がする>やっぱり。母も同じことを感じている。そう思った。だが、その次のメッセージを見て、背筋が冷た
午前一時を過ぎた頃だった。 ベッドに入ってからもなかなか眠れず、私はぼんやりとスマホを眺めていた。 特に見るものもない。 SNSを開いて、閉じる。 動画を少し見て、閉じる。 そんなことを繰り返していたとき、画面の上に通知が一つ表示された。 LINEだった。 送り主の名前を見て、思わず指が止まる。 「美咲」 高校時代の友人だった。 卒業してからはほとんど連絡を取っていない。 最後に会ったのも、もう三年くらい前だ。 どうしたんだろう。 そう思いながら通知を開く。《まだ起きてる?》 たったそれだけだった。 私は少し迷った。 こんな時間に連絡してくるなんて珍しい。 けれど、久しぶりの名前が懐かしくて、私は何気なく返信した。《起きてるよ。どうしたの?》 既読がつく。 すぐだった。 そして、数秒もしないうちに返信が届いた。《よかった。》 その二文字を見て、なぜか少しだけ嫌な感じがした。 でも、そのときは気にしなかった。 続けてメッセージが届く。《今、あなたの家の前にいる。》 私は画面を見つめた。 意味が分からなかった。 冗談だと思った。 美咲の家から私の家までは、電車で一時間以上かかる。 こんな時間に突然来られる距離じゃない。 私は笑いながら返信した。《嘘でしょ?》 既読。 すぐに返事が来た。《本当だよ。》 その直後だった。 ──ピンポーン。 玄関のチャイムが鳴った。 心臓が跳ねた。 私はベッドの上で固まった。 こんな時間に、誰? もう一度。 ──ピンポーン。 チャイムが鳴る。 私はゆっくりスマホを握り直した。 画面には、美咲からのメッセージ。《開けて。》 背中が冷たくなった。 私は玄関へ向かわなかった。 代わりに、音を立てないようにベッドから降りる。 玄関には近づかず、部屋の照明を消した。 そして、カーテンの隙間から外を見ようとした。 けれど、怖くて手が動かない。 そのとき。 スマホが震えた。《どうしてカーテン閉めたの?》 息が止まった。 私はカーテンに触れていない。 閉じたのは、もっと前だ。 なのに。 どうして分かる? もう一度、チャイムが鳴った。 ──ピンポーン。 今度は長かった。 私は画面を見つめたまま、指一本動かせなかった。 する
一人暮らしを始めて、三か月ほど経った頃だった。 毎晩、午前二時になると、隣の部屋から拍手が聞こえるようになった。 最初は、特に気にしていなかった。 「パチ、パチ、パチ……」 乾いた拍手の音が、壁越しに聞こえてくる。 三秒に一回くらいの間隔で、ゆっくりと。 それが三分ほど続く。 そして、午前二時三分になると、ぴたりと止まる。 最初のうちは、隣人が夜中にテレビでも見ているのだと思っていた。 映画か、スポーツか、何かのお祝いでもしているのだろう。 ただ、少し変だった。 毎晩、まったく同じ時間。 午前二時ちょうど。 そして、まったく同じ長さ。 午前二時三分。 それが一週間続いた。 気味が悪くなったのは、八日目だった。 仕事から帰ってきた私は、廊下で隣の部屋の郵便受けを何気なく見た。 郵便物が一枚も入っていない。 それだけなら、別におかしくない。 けれど、その部屋のドアには、表札すらなかった。 私は管理会社に電話した。 「あの、隣の部屋って、今どなたか住んでますか?」 担当者は少し黙ってから答えた。 「隣……ですか?」 「はい。毎晩、夜中に音がするんです」 「何号室でしょうか」 部屋番号を伝える。 すると担当者の声が、少しだけ変わった。 「あちらは、現在空室です」 「空室?」
新しい募集ページが公開されたのは、契約確定から3日後だった。私は、不動産情報サイトでコーポ青葉を検索した。203号室の情報が、すぐに表示された。【成約済み】コーポ青葉 203号室 所在地:東京都杉並区荻窪○-○-○ 家賃: 63,000円(管理費込) 間取り:1K(25㎡) 築年数:18年 設備:リフォーム済・バストイレ別・フローリングそして、ページの最下部。備考欄に、一文だけ記載されていた。※詳細はお問い合わせください私は、画面を見つめた。「詳細はお問い合わせください」でも、問い合わせても、何も答えられることはない。なぜなら、告知すべき「事項」が存在しないから。法的には。私は、ブラウザを閉じた。それから1ヶ月が経った。新しい入居者は、予定通り入居したのだろうか。矢崎からの連絡は、一切なかった。私も、連絡を取ろうとは思わなかった。この件は、「終わった」ことになっている。でも──本当に、終わったのだろうか。私は、時々夜中に目が覚めた。そして、あの音を思い出す。ゴトッ、ゴトッ、ゴトッ。誰かが這っている音。出られない誰かが、必死に這っている音。2ヶ月後、私は別の仕事で杉並区を訪れた。そして──何かに引き寄せられるように、コーポ青葉へ向かった。建物の前に立つ。変わらない外観。変わらない静けさ。私は、2階を見上げた。203号室の窓。カーテンが、かかっていた。白いレースのカーテン。
矢崎からメールが届いたのは、募集開始の前日だった。件名は「資料返却のお願い」。本文は、極めて事務的だった。> お世話になっております。> 先日の調査、誠にありがとうございました。> つきましては、調査時にお渡しした資料一式をご返却いただけますでしょうか。> また、調査で取得されたデータ(録音、写真等)につきましても、削除をお願いできればと存じます。> 何卒よろしくお願いいたします。私は、画面を見つめた。資料の返却は、理解できる。でも、データの削除まで──これは、明らかに証拠の隠滅だった。私は、返信を書いた。> 承知しました。> 資料は明日お返しします。> ただし、データの削除については、少し考えさせてください。送信してから10分後、電話が鳴った。矢崎だった。「すみません、急に」「いえ」彼は、少し躊躇ってから続けた。「データの件ですが……これは会社からの正式な要請なんです」「法的な根拠はありますか」「いえ、ありませんが……」矢崎は、言葉を選んだ。「お願い、という形です」「断ったら?」「……困ります」彼の声は、疲れていた。「正直に言います。上からかなり圧力がかかっているんです」「圧力?」「この件を、なかったことにしたいんです。会社は」私は、黙った。矢崎は、続けた。「募集を開始する以上、過去の調査記録は残したくない。もし後で問題になった時、『調査はしたが、異常は見つからなかった』という立場を取りたいんです」「でも、異常はあった」「証明できないんです」矢崎の声が、掠れた。「法務が言